村に通う理由を説明するのは難しい。
なぜ、難しいのか。
それは僕らが村に通う本当の理由を説明するには目的や手段ではなく、動機、つまり自分の価値観を説明しなければならないからだ。
目的や手段を数字や行動と合わせて説明すれば、理由らしく聞こえるのかもしれない。あるいは、よくある「都会の若者が村に通う5つの理由」みたいな感じで、事象を列挙すれば伝わりやすくなるのかもしれない。
けれど、村に通っているのは僕ひとりではなく、それぞれが自分の動機で通っている。
そして個人の動機があるからこそ、全体としての村通いは継続している。僕はこの継続していることこそが価値だと考えている。
だから、ここでは目的や手段の話をしたり、事象を列挙するつもりはなく、ただ僕自身の動機を紹介してみたいと思う。
好きだから。
初期にまた訪れることになるきっかけは、村の人が誘うのが上手だったり、団体や活動の一環だったりする。
その頃は自分の感情が原動力になっていることには無自覚だ。
僕が好きなのは村に通うことそのもので、それはつまり「時間」なんじゃないかと考えている。
学生の頃、僕はあまり自分の好き嫌いがはっきりしていなかった。
はっきりしていたのは食べ物の好き嫌いくらいで、好きなことや好きな人ってのはすごくぼやけていた。
ところが、ある時から僕は村に通う自分の動機として「好き」と言うとてもシンプルな感情があることに気がついた。
それに気がついたのは村で4度目の夏を過ごした頃だった。
「村で誰かと一緒に過ごした時間」が自分の中に少しずつ溜まっていった。それがある一定のラインを超えた時に感情が溢れ出して、ようやくその時間が好きだと自覚できるようになった。
最初から好きってのはかなり特異なケースで、ほとんどの場合は好きになる。って方が自然だと思う。そして、好きになるためには好きだと自覚できるだけの時間の積み重ねが必要だ。
生活の一部だから。
僕は通える村のある暮らしをしている。
村通いは、大学の研究室としての活動や期間限定のプロジェクトではない。
きっかけは団体や活動だったとしても、個人の暮らしの一部として存在している。
働いたり、寝たり、ジムに行ったり、友達と遊んだり、デートをしたりする当たり前の日常。そんな一日のように村での一日がある。
実は、通える村のある暮らしは贅沢な暮らしだ。
そこで暮らす人がいなければ、通うことなどできない。そこにある暮らしの中に、僕らは少しだけ自分の暮らしをお邪魔させてもらっている。
そこでは四季と日本を強く感じることができる。
そこには「またおいで。」と言ってくれる人達がいる。
そこで一緒に過ごした時間が増えれば増えるほど、そこには居心地の良さが生まれる。
居心地がいいと感じられる場所のある幸福感は物凄く、とてもありがたい。
居心地の良さを感じられる場所。
ほっといても積み重なる毎日の中で、そんなことを感じられる暮らしを独り占めにしなくはない。
最近、私も行ってみたいと自分から連絡をくれる友達がちらほらいることが、とても嬉しい。
村に通うことが暮らしの一部になっている人が自分以外にもちらほらいる。
誰もが村に通うわけではない。だからこそ通うことになった人にはいつか必ず村での時間があって良かったと思える日が来るのだと確信している。
自分の時間が有限だからこそ、好きだと自覚している時間をもっと積み重ねていきたい。
その幸福感を共有できる人達と一緒に過ごしていたい。
これからも誰かと一緒に居心地の良さを感じられる場所を育てていきたい。
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